一弁護士の雑感(震災・原発事故から2年)

あの大震災から2年が経過した。原発事故からも2年が経過した。

以下、自分なりに個人的な見解を書き留めておく。

あっという間の2年だった。何が変わったかと言えば、震災・原発事故まもなく愛すべき子供が生まれたこと。日に日に成長する君の姿を見るのはとても楽しみだ。

でも、南相馬市の医療事情(特に小児科等)や生活環境等を考えれば未だ避難を継続させざるを得ない現実。小児専門医がいるのは市立病院のみ。避難を継続させるか、戻すかの選択をどうするか夫婦で悩む日々。子供の将来をどうするか、どこの学校に進ませようかと悩む日々。

誰しもが間違いなく言えるのは、原発事故がなければ通常どおり自宅で暮らすことができただろう。

原発事故後、いろいろな区域指定にされてコミュニティーが分断され、それが賠償にも反映し、住民同士の軋轢を生み出す。

東電は当初被害者に寄り添うと言っていたが、徐々に態度を硬化させ、言葉を二転三転し、それが被害者にさらなる被害を与え、失望させている。

将来が見えないという耐えがたい苦痛。

除染は一向に進まず、放射線量が低減しているといえども、移染しているのだろう。低線量被曝の確率的影響を考慮しても、放射線を避けられるなら避けるのを選ぶのが通常人の考え。実態の分からない県民健康管理調査。

陸の孤島と言われていた原町はさらに陸の孤島となった。常磐線は津波と原発事故のせいで不通。相馬原町間のみの営業であり、北は亘理まで。南は警戒区域。仙台までつながるのはいつの日か。高速は、北は山元まで来ているが、相馬から山元が未開通。なぜか相馬原町間のみ。南は除染が一向に進まないらしい。南相馬から福島へは山道の県道を、飯舘を経由して通らざるを得ないが、事故でも起きれば寸断されてしまう。しかも、積雪期はマイナス10度以下となり凍結する。南は小高でストップ。北は国道6号線のみ。物流・交通に大きな問題があるのは一目瞭然。

飲食店は概ね再開しているものの、まだ再開できないスーパーもあるし、大手飲食店の一部も再開できていない。既に撤退を決めてしまった店舗も幾つもある。スーパーの営業時間は軒並み夜8時まで。北20キロの相馬市は通常どおり営業しているのに、どうして格差があるのだろうか。

津波被害の跡地は既に雑草が生い茂ったまま。

何より、小高区は、避難指示解除準備区域とされ、車両や家屋の撤去は一部されているが、復旧にはほど遠い。まだ崩れかけの家屋や店舗が残っている。津波被害に遭った車も残っている。ほとんど店など営業しておらず、上下水も寸断されたままであり、復旧は遅々として進まない。国から解除されて這いどうぞと言われても、1年以上住んでいなかった家屋に再度すむためにはリフォーム等をする必要がある。

その南の浪江町はまもなく警戒区域の再編を迎えるが、時間は3.11から止まったまま。

少なくとも、小高の二の舞にならないようにしてほしい。

さて、弁護士として、被災ローン減免制度、東電・国に対する損害賠償、防災集団移転、相続登記問題(遺産分割)、震災関連死(災害弔慰金)、原発事故問題に対する環境法からのアプローチ等々やるべきことはたくさんある。一歩一歩確実にやっていくしかない。

 

カテゴリー: 南相馬市の実情