大震災で弁護士は何ができるか(東北弁連大会でパネラーになった時のレジュメ)

私の敬愛してやまない、元ボスの、渡辺淑彦弁護士が、一昨日の金曜日に東北弁護士連合会(秋田)のパネルディスカッション用に書かれたものです。
皆さん、是非ご一読を。

1. 地震・津波・原発震災という三重苦におかれている浜通り

津波被害の惨状を見ると凍り付くような気持ちになり、言葉を失います。あまりの衝撃で、犠牲者のご冥福を祈ることさえ忘れてしまいそうになります。幼い頃から何度も通ったはずの海水浴場なのに、目印が一切なくなってしまい、今、自分がどこに立っているのか分からなくなるほどです。何も遮るものが無くなってしまったため、今は穏やかに見える海が、不気味に、すぐ近くに見えるのです。

福島県浜通りでも、多くの方々が津波の犠牲となりました。さらに、今も続く原発被害のために、今後の復興への見通しや希望が全く持てない状態です。

私は、東京で活動した後、「生まれ故郷でもある福島県浜通りの法的アクセスのために少しでも貢献したい。」という思いから、相馬ひまわり基金法律事務所に赴任しました。任期終了後、昨年秋から、いわき市に開業したばかりでした。浜通りへの思い入れが強いだけに、この地の惨状を見ると平常心ではいられません。

2. 被災者の気持ちに寄り添う努力

私の事務所も自宅も地震でメチャクチャになりましたが、この地では、私などは被災者の部類には入らないのかもしれません。家族共々生き残ったし、自宅を失わずに済んだし、仕事もあるのですから。それだけに、亡くなった多くの方々のためにも「生き残った者の責任を果たさなければならない、消極的な姿勢は無責任に過ぎない。」と考えざるを得ません。

私の事務所を設計してくれた高校の後輩は、震災のほんの2週間前に事務所遊びに来た際、「今度3人目が生まれるんです。楽しみです。」などと話していました。それなのに、お腹の中の赤ちゃんも含め奥様と幼い二人のお子さんをすべて失いました。

私の叔母は、家や庭を大切にする人でした。いつも庭には四季折々のきれいな花を咲かせ、白い玉砂利には箒の目が立っていました。家は単なる「物」ではありません。そこには、長年の叔母夫婦の努力の証があり、家族の団欒の場がありました。それが、あっという間に津波で流されました。「自分たちの今までの努力は何だったのか・・」繰り返し、泣きながら訴える叔母に、かける言葉も見つかりませんでした。

毎年、自慢の米を持ってきてくれる農家の方がいました。「先生、有機栽培でほとんど化学肥料は使っていないから美味しんだよ。」と自慢げに話していました。浜通りの米をブランド化しようと頑張っていたし、孫達や知り合いに配って、喜ぶ顔を見ることを生き甲斐にしてきたのです。しかし、彼の農地は、福島第一原発のお膝元にあり、今後、農業が出来るかどうかは分かりません。大切にしてきた故郷に帰ることさえできるか否かも分かりません。

福島、特に浜通りには、今、このような立場に追い込まれた人たちがたくさんいます。

弁護士の仕事が、社会の片隅に追いやられたような人たちに救いの手を差しのべる仕事だとすれば、私たちは、このような立場に置かれた人たちの張り裂けるような気持ちを少しでも理解し、相談に乗り、それを社会に向けて代弁し、発信する社会的使命があると思います。

3. 避難・地元に帰る決意

原発が水素爆発を起こした後、いわき市内はパニックに陥りました。いわき市の大部分は30キロ圏外ですが、当時は放射性物質の拡散状況が全く分からず、逃げることが可能な人はほとんど避難しました。裁判所も検察庁も閉庁となりました。

もっとも、ガソリンが無かったため、逃げたくても逃げられない人がたくさんいました。避難できなかった人たちの生活は過酷でした。迫り来る放射性物質に対する恐怖、物資不足(放射性物質を怖がり、いわき市内には生活物資を積んだトラックが入ってきませんでした。)、水道も出ない状態がずっと続きました。

当時、私は幼い2人の子供達の命を守ることしか頭にありませんでした。妻が出張中であったことから、嫌がる子供達に合羽をかぶせ、濡れマスクをかけさせ、車の空調を回さずに逃げました。泣き叫ぶ子供達をあやし、何とかガソリンを補給しながら、寸断されていない道を探し、10時間以上かけて東京の妻の実家に避難させました。

私も、1週間ほど避難生活を送っていましたが、何もせずに、被災地に背を向けたまま、避難生活を送ることに堪えられなくなってきました。さいたまスーパーアリーナで、浜通りからの避難者の法律相談ボランティアに参加しました。しかし、ここでのボランティアの充実ぶりを見て、かえって「地元の避難所では、このようなサービスは無いはずだ。」という思いを強くし、一人帰ることを決意しました。

4. 避難所相談の開始

当初、市の災害対策本部を訪問し、法律相談の必要性を説きました。しかし、市としてはそれどころでは無いという状態でした。「先生、借金の相談などは、まだこれからでしょ。まだ、死体も見つかっていないのだから。落ち着いてきたらお願いしますから。」という対応でした。市の職員の方を責めるつもりは全くありません。市の職員の方も、1日2交代制で、髭面のまま、昼夜休み無く頑張っていました。しかし、全くマンパワーが足りず、避難所にいる人たちの心のケア、相談には関心が向いていませんでした。

私は、東京の仲間の協力を得て、ゲリラ的に大きな避難所を中心に、法律相談を実施しました。ブース形式ではなく、有用な情報が記載されたビラを持って、各避難者が休んでいる場所を1つ1つ回り、そっと座って話を聞くというスタイルを取りました。東北人の慎ましさからか、最初はそれほど口を開かないものの、徐々に語りはじめました。避難所への不満、津波被害のこと、原発の恐怖、仕事の不安、子供の心配、お金の心配など、心配事を次々に語りはじめました。それは現行法ではほとんど解決できないものばかりでした。相談をしても、無力感を覚えることしばしばでした。もっとも、心配事を弁護士に話すだけでも、幾分表情の柔和さが戻るのが救いでした。「ここに3週間いるけど、困りごとはありませんかなどと聞きに来てくれたのはあんただけだよ。」と言ってくれたおじいちゃんもいました。現行法では、解決困難なことでも、「皆さんの声を聞かせて下さい。皆さんの声を集約すれば、もしかしたら、立法も動くかもしれない。」と希望を持たせるようにしながら、話を聞きました。

避難所だけに法的ニーズがある訳ではないことはすぐに分かりました。最初の段階で多かった相談は、相隣関係の相談、借地借家関係の相談であったので、地元のFMラジオ局と協力し、紛争を未然に防止するために、QA方式で放送を流してもらいました。

既に震災から3か月が過ぎようとしているにも関わらず、依然として避難所生活を余儀なくされている方々の場合、法律相談というよりも、避難者自身の生存権そのものが侵害されつつあるのではないかと思わざるを得ない状態です。早急な対応が必要です。

5. ボランティア相談のあり方

被災者相談の場合、様々な複合的なニーズがあり、弁護士だけによる縦割り相談ではあまり役に立たないことが分かりました。災害時には、市の組織とは全く別の組織として、ボランティアセンターが重要だと思います。そのボランティアセンターの一組織の中に弁護士も入り、被災者のニーズとのマッチングをしなければ、単独で弁護士が被災者の相談に乗っても、縦割り組織を一つ増やすだけになってしまいます。災害時には、様々な垣根を越えた横のつながりが重要になります。地方の弁護士は、本来コミュニティロイヤーとして、常日頃からこのような横のつながりの核となり、災害時にはそれを組織化するような活動が必要です。今の弁護士には慣れていない能動的な活動が重要なのです。

6. 原発震災被害からの復興

 この地において復興への希望が見えない理由は、原発による想像もつかないほどの影響があるためです。住民の方は、「『補償する』という言葉は聞き飽きた。」と異口同音に言います。実際に補償されるのはいつなのかが問題なのです。今、農業関連、水産加工関連の事業者を中心に、経営的に非常に過酷な状態に追いやられています。これらの事業者は、人件費という固定費を削ることや、銀行への返済猶予をしてもらうことでやっと存続している状態です。ハローワークには、求職、失業保険受給のための長い列が連日続いています。このような惨状を見て、法律家として、もはや政府の方針を待ってばかりいる状態では責任を果たすことは出来ないと考えざるを得ません。現在、地元の弁護士有志で、現地の悲惨な状況、現地の声を全国に届ける活動を続けています。

また、この地の救済のためには、一時的な金銭補填だけでは不十分です。特区的は発想で、長期的な優遇措置を採る必要があります。国策で原発を推進し、このような事故に至ったのですから、国はその責任でこの地を救う立法を策定する義務があるはずです。

地震による被災に加え、原発事故が重なった震災を「原発震災」と呼ぶとすれば、福島は、世界ではじめて「原発震災」を経験した地域となってしまいました。日本は、広島・長崎において、世界ではじめて「原爆被害」を経験した国であるのみならず、福島において、世界ではじめて「原発震災」を経験した国となってしまったのです。残念なことですが、現在、福島は世界でも最も有名な地域になってしまいました。この福島が、放射性物質で汚染されているという負のイメージから脱却を図るためには、この地を「自然エネルギー特区地域」に指定し、税制上、財政上、産業政策などあらゆる面において特例措置を実施するような方向性を目指す必要があると思います。再生可能な自然エネルギーの先進的モデル都市として生まれ変わり、世界に向けたアピールをしていく必要があると思います。

私は、今まで原発反対運動にどこか政治的色彩があるような気がして、こんなに近くに原発が存在するのに、あたかも原発など存在しないかのように、「無関心」を選択してきてしまったのです。今、心から反省しています。

7. 最後に

震災後の惨状を見ると、日本の終戦後の状況を想像せざるを得ません。

 あの状態から日本が復興を遂げたのは、一部の優秀な為政者のお陰ではなかったはずです。たまたま生き残った一人ひとりが、「亡くなった人の分まで、生き残った者の責任として頑張ろう」と思って、頑張った結果だったからでがないでしょうか。平成23年3月11日。震災により、多くの人が亡くなり、私たちは運よく生き残りました。「生き残った者の責任」として、自分が出来ることを精一杯頑張るしかありません。消極的な姿勢は、無責任に過ぎないと思います。そして、いつか、きっと、空気がきれいで、水が澄んでいて、魚がおいしくて、野菜が新鮮な、美しい・愛する福島県浜通りに・・・。

 「終戦後、横浜も一面の焼け野原でトタンしか見えなかった。でも、ちゃんと復興した。いわきも大丈夫。いつかきっと。」横浜のおじいちゃんからの言葉です。頑張ろう、東北。頑張ろう、福島。頑張ろう、浜通り。

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